日本言語学会第137回大会(2008)公開講演要旨
朝鮮漢字音アクセントの歴史的発展と類推変化
本講演では,現代朝鮮語のうち特に,中国北東部延辺朝鮮族自治州で話されている延辺朝鮮語の漢字語アクセントについて,中期朝鮮語アクセント(約30種の文献調査による)からの歴史的発展と,その例外的変化に観察される類推の影響について分析を行うことを目的とする。分析対象は,延辺朝鮮語母語話者から得られた2音節漢字語(約8,000語)であるが,必要に際し2音節固有語(約800語)についても言及する。主要な論点は以下の通り。
- 漢字語アクセントは固有語アクセントと異なる類推変化を見せる傾向がある(漢字語 LH → HL,固有語 HL → LH)。これは,それぞれの語彙クラスにおいて,最も大きな割合を占めるアクセントクラスが異なっており(漢字語HL,固有語LH),類推変化は主要アクセントクラスに吸収される形で起きていることによる。またこのことは,話者が漢字語・固有語という語彙クラスの違いを認識していることを示すものでもある。
- 2音節漢字語においては,構成する漢字音の末子音の種類によって,アクセント変化の傾向が異なる(分節音の情報がアクセント変化に影響している)。これは,朝鮮語漢字語においては個々の音節構造とアクセントとの間に強い相関関係があるためである(Island of Reliability effect, Albright 2002)。
- アルゴリズム(Stochastic Gradient Ascent learning algorithm, Jäger (to appear))を用い,中期朝鮮語から延辺朝鮮語への歴史的変化シミュレーションを行った結果,延辺朝鮮語におけるアクセント変化は,異なるweightをもつ複数の制約を想定することにより説明される。
- 中期朝鮮語2音節漢字語のLH/LLクラスにおいては,第1音節漢字音の頭子音がsonorantであるか否か,またそれが使用頻度の高い形態素であるか否かによって,その歴史的変化に統計学的に有意な違いが見られる。
フィリピン言語学の現在
フィリピン諸語といえば「フォーカス・システム」と呼ばれるヴォイス現象が最も有名である(最近は,あまり適当ではない「フォーカス」ではなく,symmetrical voice systemなどと呼ばれることもある)。言語類型論ではフォーカス・システムの特異性が語られることが多い。
しかし,オーストロネシア語族,フィリピン諸語の研究者の間で,フォーカス分析が神聖視されているわけではもちろんない。ヴォイスに関わる現象はさまざまな解釈や分析が可能である。その特異性ゆえに言語類型論へのチャレンジとしての役割は依然としてある一方,今日の言語類型論の中でフィリピン諸語のヴォイスを位置づける試みも多くなされている。
また,フィリピン諸語と一括され,タガログ語の例示でもってフィリピン諸語全体を代表させることがある。タガログ語の現象がフィリピン諸語一般にもあてはまるような誤解を与えていることもある。しかし,フィリピン諸語の文法はかなり多様である。
この講演では,フィリピン諸語としての普遍性に言及しつつ,多様性を紹介する。ヴォイスをめぐる現象以外にもフィリピン諸語を特徴づけるものはある。本発表では,
- 語彙範疇の特異さ(しばしば名詞と動詞の区別が明瞭ではない例としてフィリピン諸語が挙げられることがある)
- 接語(clitics)の存在
- 能格性
などを取り上げる。発表者が研究を進めているルソン島中部の大言語であるカパンパンガン語 (Kapampangan) やその他の言語からのデータと分析を紹介する。フィリピン諸語の記述的,理論的な研究が,言語類型論とどのような相互作用を起こせるかを議論したい。