知っていることと知らないこと
―対照語用論の試み―
対話においては,原則として相手の知らない単語や固有名を裸のまま(=引用形式をつけずに)導入するのは好ましくない。すべからく適切な導入の手続を踏む必要がある。たとえば,(1)の対話において,乙が,「玉野市」が甲の知識にないことと信じているとすれば(2)のごとく,甲の知識により固定できる形で述べるのがより親切であり,談話として自然なものとなる。
(1) 甲:田中さんは,お生まれは。
乙:玉野市です。
甲:はあ?
(2) 乙:玉野市というところです。岡山の南の方で,宇高連絡船の宇野のある……
上の例は,談話の際の原則であり,何語においても共通であると考えられる。しかし,次のような例ではどうであろう。
(3) 甲:そこで田中さんにあったよ。
乙:田中さんはだれですか。
(4) 甲:きょう ICOT に行って来た。
乙;ICOTがなんですか。
(3) (4) のような文脈では,乙の発言は日本語として全くおかしい。これらは下線の部分に「って」,「というのは」といった引用形式をつければ正しくなるので,やはり,乙が下線の部分の単語,固有名を知っている,知らないということがポイントになっている。しかし,(1) と異なり,(3) (4) は,日本語自体の問題であって,英語,朝鮮語,中国語等では,このような場合,固有名等を「というの」といった引用形式でマークする必要はない。
本発表では,上の (3) (4) のような現象を考察し,その説明として,次のことを提案,論証した。
ある未知の対象を固有名詞で導入する際,
(I) 日本語では,これが新規に導入された知識であり,共通知識でない(=対話者の一方が他方に提示したものであること)を引用形式をつけること等により,談話中ずっと示す。
(II) 英語等では,最初の導入の際引用形式により新規知識であることを示し,あとは照応的対象として,共通知識的にあつかわれる。
(III) (I) (II) の差は,対話の際の差であり,特定の聞き手を想定しない,モノローグ,お話等ではあらわれない。
更に,(I) (II) の差は,代名詞,指示詞の用法の差,普通名詞,節,等々の導入の仕方にも及んでおり,日本語の基本的特質を示していることを論じた。