満州語文語の母音調和における変異例ついて
満州語文語の中性母音 i には,陰陽両方の母音がつく (bimbi>bihe, sijimbi>sijihe, silimbi>siliha) (この現象は,同系統のウイルタ語にもある).これは Benzing (1955:21) によれば合一する以前の祖語の音韻的差異による.中性母音 u にも陰陽両方の母音がつく (cukumbi>cukuhe, susumbi>susuha) のは,女真語の前母音 ü と後母音 u が合一して中性母音化したからと考える.現代語の資料『満語口語研究』(恩和巴図著,1995)には,[biʁα]/[biɤɯ] (bimbi>bihe), [dziʁα]/[dziːɤɯ] (jimbi>jihe), [jiliʁα]/[jiliɤ] (ilimbi>mha) の記述がある.今のところ他の資料の奥付けがないのでデータの信憑性に疑問もあるが,これが信頼できるものとすれば,一部の口語では祖語の音素*iと*ıの合一した中性母音に陰陽両方の母音がつくことで区別が曖昧になり,[ʁα]/[ɤɯ]というゆれが生じた可能性が考えられる.文語の合一した i は,現代語のこうしたゆれの一因になっていたかも知れない.また,完了形では -ha がつく中性母音語幹にも,形動詞接尾辞は -re 一種類になっていることも,合一したことで陰陽の弁別が厳密ではなくなったためと考える.
また,不規則動詞の fombi>foha/fore, gombi>goha, yombi>yoha は,円無調和上は -ho/-ko がつくべき語である (bombi>bongko/bondoro, jombi>jongko/jondoro, ombi>oho/ojoro).文献的に先立つ女真話の接尾辞の母音交替では,満州語文語ほど円唇性対立は明確ではないが,bodolo, omolo, tobohon などの再構形では語幹内の円唇性保持が見られるので,円唇母音の接尾辞が次第に衰微して,上のように o ではなく a/e が使われたと考えられるならば,この点では女真語が満州語文語よりも先行していたのではないか.円唇性の喪失は,女真語の与位格接尾辞 -dö/-do が満州語文語で -de となることにも見られる.