企画:片岡 喜代子
司会:戸次 大介
日本語のモ・サエ等を含む文「花子も/さえ来た」には「花子以外にも来た人がいる」という付随的事態が想定され,随伴命題(shadow sentences (Kuroda 1965))等と呼ばれる。この随伴命題が意味論的な「前提」か語用論的含意か等の識別は,文の意味記述には必須であるが,その同定手法や前提概念そのものが日本語では確立されてはいない。本研究の目的は,随伴命題のうち意味論で扱うべき前提を再確認し,語用論的随伴命題とは厳密に区別して,前提を同定する手法を確立することで,それにより前提導入表現の同定をも可能にする。日本語を材料に,随伴命題導入現象全体の特質を明らかにし,その個別言語としての特質及び通言語的特質を捉えることを目指す。また,意味論的前提として同定された命題こそが,構成性原理(compositionality)に則した形で語彙の意味記述に組み込むべきであることを再確認する。
Heim(1983)が前提投射の概念を提示して文の意味論的前提が意味合成において計算されることを示唆して以来,何が意味論的前提かが問題となっている。英語を材料とする一連の議論を概観し,前提と呼ぶべき現象を確認した上で,如何なる命題を構成的意味合成で計算される前提と見なすか,それを如何にして同定するかを論じ,意味論的前提と語用論的前提との区別が意味記述に必要であることを改めて主張する。日本語研究においても,語彙の意味記述には両者の区別が必須で,意味論的前提を同定する前提テストが必要となる。しかし,英語のテスト項目の翻訳がそのまま日本語に適用できるとは限らず,「何が前提テストと成り得るか」という別の問題が生じ,「何が前提か」という問題と言わば鶏と卵の関係をなす。本研究では判断の収束性の観点から前提テスト項目を決定し,それに基づいて日本語に於ける意味論的前提を経験的に同定する方法論を提案する。
日本語の否定関連表現を用いて,意味論的前提と語用論的前提との区別が意味記述には必要で,それをどう区別し,その区別により何が捉えられるかを見る。-シカ~ナイは-以外~ナイや-ダケと同等に扱われ,英語のonlyに倣った意味記述がなされる(Kato (1985: 5))((1) 花子しか来なかった。(2) 花子以外来なかった。(3) 花子だけ来た。)。しかしその随伴命題「花子が来た」が取り消し可能か否かで違いが見られ,(2)は「花子も来なかった」を後続可能だが,(3)は後続不可能で,-シカ文では取り消し不可能である。また「ろくな-」の文では「来た人が誰かいた」ことを想定し,その取り消しはできない((4) ろくな奴が来なかった。#誰も来なかったんだ。)。このような現象を正確に捉えるには,取り消し不可能という要因により随伴命題のうち前提を同定して,語彙の意味記述に加えるべきであることを論じる。
日本語の証拠推量表現の意味分析を行い,「証拠」を意味論的前提として扱う可能性を探る。日本語の助動詞「ようだ」は「直接経験に基づく推量」を表すとされることが多い(益岡・田窪(1992: 128)等)。例えば,水溜りがあるのを見て「雨が降ったようだ」という文が使用された場合,この文は「水溜りがある」のを見るという話者の直接経験に基づき,話者が「雨が降った」ことを推量したことを表す文であると捉えられる。ここで問題となるのは,上述の直接経験に基づくということが「主張の一部」であるのか,それとも「前提」(もしくは「含意」)であるのかということである。本発表では,まずこれらを意味論的前提として扱う可能性を探る。その上で,「らしい」「はずだ」等その他の証拠推量表現についても考察を加え,証拠推量表現一般の意味論的前提をどう捉えるべきかを議論する。
最後に,言語処理の視点から,前提についての理論研究の成果がもたらす可能性について論じる。「言語処理技術に基づく知的情報システムの構築」という文脈から,前提研究がもたらす新たな可能性を探りたい。現在発表者は,Web上のニュースから感染症情報を取得するシステムの開発に携わっているが,その中で感染症についての「最も初期の報告」(貴重)と,それに続く数多くの「続報」(さほど貴重でない)をどう区別するかが課題となっている。ここでは,「続報にのみ現れる前提表現に着目する」というアプローチの概要を示し,理論的研究と実用的なニーズの接点について議論する。