企画:谷 みゆき
司会:井上 逸兵
池上(1981)は,英語と日本語の動詞に組み込まれているアスペクト構造に注目し,一見同じ意味を持つように見える動詞であっても,両言語の結果含意には相違が観察され,英語を<結果志向>,日本語を<過程志向>の言語として特徴づけている。この点について,2007年11月の日本英語学会第25回大会ワークショップでは,語,句,文,談話の各レベルにおいて同様の志向性が見られることを確認した。本ワークショップでは,その続編として,①英語学会では対象としなかった言語現象・データについても同様の考察結果が得られることを示すことによって,さらに志向性を裏づけること,②<結果志向>および<過程志向>が両言語における<好まれる事態把握>,つまりは英語の<客観的把握>と日本語の<主観的把握>とどのように関連しているのかを検証することの2点を目的とし,志向性とその動機づけについてさらに深く考察する。
goと「行く」,comeと「来る」は,話し手の視点がその意味に含まれている語であり,その点で日英語ともに<主観的把握>がされやすいが,状況への埋め込まれ方は同じなのであろうか。例えば,英語ではgo naked, go brokeなどのように,抽象的な(悪い方向への)状態変化を表す語義として到達点に焦点を当てている用法があるが,「行く」にはこのような用法は見当たらない。逆に日本語では補助動詞的に(「~ていく/~てくる」)積極的に状況に没入された使い方をするが,英語ではあまり見られない。本発表では,多重活性化モデルを用いて,主にgoと「行く」を詳細に分析することで,英語の方がより「脱主体化」されており,そこから各言語特有の志向性が生じていることを主張する。また,認知心理学で言う「ポジティブ・イリュージョン」の日英間の相違が,goと「行く」の意味にも反映されている可能性を指摘する。
一般にイディオムは,構成要素の意味の総和からは全体の意味を推測し難く,それゆえ形式と意味の関係は恣意的であると言われてきた。しかし,主体の認知が言語表現に反映されているという前提に立つ認知言語学の観点から考察すれば,イディオムにも認知的な動機づけが認められるはずである。2007年に行われた日本英語学会第25回大会ワークショップでは,行為の結果を含意するかどうかという基準で使用頻度の高い英語と日本語のイディオムを検討し,前者は<結果志向>後者は<過程志向>であることを確認した。今回は,英語と日本語のVPイディオム,特に「死」を表すイディオム(e.g. kick the bucket,give up the ghost,お隠れになる,天に召される,など)をデータとし,婉曲的に表現する方法の相違を検証するとともに,英語と日本語の好まれる事態把握がイディオムの生成段階で深く関与していることを主張したい。
日本英語学会第25回大会ワークショップでは,Vendler (1961)の動詞分類に基づき,動詞と英語の完了構文および日本語の「・・・テイル」との共起関係を考察することにより,英語は結果状態をあらわす構文を有する一方で,日本語には結果状態をあらわすに特化した構文がなく,このことが英語の<結果志向>および日本語の<過程志向>の一環であると論じた。この結果を受け,本発表ではさらに考察を進め,英語の完了構文および日本語の「・・・テイル」,そして英語学会ワークショップでは扱わなかった「・・・テアル」の実際の使用を分析することにより,構文レベルに見られる両言語の志向性の背後にどのような要因が存在するのか,具体的には,その違いが話者のどのような事態把握を反映したものなのかを,従来より指摘されている英語の<客観的把握>,日本語の<主観的把握>が認められるのかを検証することを通じて示す。
日本英語学会第25回大会ワークショップではLabov & Waletzky (1967)が指摘する物語構造のabstractとcodaに焦点を当て,新聞報道のテクストにも英語と日本語の<結果志向><過程志向>という特徴が観察されることを確認した。また日本英語学会第26回大会研究発表では英語と日本語の新聞報道において,何が重要な要素とみなされ,またそれがどのような言語的資源により表現されているのかということを分析している。これらの研究を出発点とする本発表では,論評などのこれまで扱ってこなかったジャンルも分析の対象とし,まず両言語の志向性を確認する。その後,言語現象には人間の事態把握が反映されているため,言語表現を生み出す人間の主体的な事態の捉え方を考察することが不可欠であるという考えのもと,日英両言語の志向性がなぜ生まれるのか,言語表現とその背後にある好まれる事態把握の関係を中心に考察する。