企画・司会:中井 悟
本ワークショップでは,日本語におけるガ・ノ交替現象(たとえば,「太郎が/の買った本」)に関する三つの異なった立場(生成文法,認知言語学,心理言語学)からの新しい研究を紹介する。
生成文法では,ノ格名詞句が主語であるのに形態上属格であることをいかに説明するかが議論の中心であるが,誰もが納得する決定的な分析はいまだなく,研究者間で意見の対立がある。二名の生成文法研究者が最新の研究を紹介する。
ガ・ノ交替現象は,長年,生成文法が研究対象としてきたが,認知言語学でもガ・ノ交替現象が分析対象となっているので,認知言語学ではガ・ノ交替現象がどのように分析されているかを紹介する。
心理言語学者からの報告は,心理実験によって確認されたノ格主語文の処理で使用される方略に関するものである。
当発表ではガ・ノ交替文の分析を通して母国語話者の言語知識の普遍的な理論の統語・音韻・意味解釈各部門の相互作用の解明を試みる。
名詞句内の文では,文の左端に現れる名詞句の助詞は,ガ格が現れる場合とノ格が現れる場合がある。従来このガ・ノ交替と呼ばれる現象は,統語部門におけるほぼ義務的な現象と考えられていた。当発表では,従来の統語研究では積極的に取りあげられてこなかった,(i)時の副詞句内ではガ・ノ交替が起こるが,理由節内では起こらない,(ii)文の焦点とノ格主語は共起しない,といった,ガ・ノ交替文の分布の偏りに着目する。
このようなデータの観察に基づき,当該構文でガ格主語が現れるのは「格助詞の交替が起こりうる箇所に生起する名詞句が文の焦点の場合」であり,ガ・ノ交替は,焦点の素性をもつ名詞句の格素性に[ガ],焦点の素性をもたない名詞句の格素性に[ノ]という音韻上の価を与える文法上のメカニズムによる,と提案する。
ガ・ノ交替現象をミニマリスト統語論における「一致」操作の観点から分析し,その理論的妥当性及び帰結について考察する。議論の土台として,ガ格がINFLによって名詞句に与えられる格の値であるのに対しノ格はその上位に位置する別の機能範疇(補文標識(Hiraiwa 2001)あるいは決定詞(Miyagawa 1993, Ochi 2001))により与えられる格の値であるという先行研究の考え方を基本的に採用する。その上で日本語における目的語の義務的移動を仮定し,ヲ格・ノ格交替の欠如及びノ格主語構文において観察されてきた他動性制約について最近の「フェイズ理論」における局所性原理に基づく説明を試みる。またガ格・ノ格の交替及び両者の共起について,INFLとその上位の機能範疇(補文標識あるいは決定詞)の間の「統語的一致」操作を採用した分析を提案する。
ラネカーの提唱する認知文法の理論的枠組みに基づいて,ガ・ノ交替現象を認知的要因に還元し理論的説明を試みる。ガ・ノ連体修飾表現は,ともに参照点参与体Rを介して標的参与体Tに心的コンタクトを確立する「RノT」構文をベースにしており,RとTの間の意味的関係が明示的に述語の意味構造によって精緻化されたものが「ノ」連体節であり,このR/T認知モードで捉えられた「ノ」連体節の認知像を下敷きに改めて認知的際立ちに基づいてtr/lm認知されたものが「ガ」連体節であると論じる。R/T認知で捉えられた認知像はいつでもtr/lm認知で捉え直しが可能であることが,ガ・ノ交替の随意性の正体なのだと主張する。認知モード転換という観点からの分析は,通時的言語変化(ノ格主語→ガ格主語),他動性制約,「ノ」連体節が「ガ」連体節より好まれる事例などの言語現象にも統一的かつ自然な説明を与えることができると主張する。
現在,統語解析の研究では,聞き手/読み手は,文を最後まで聞いて/読んでから処理するのではなく,入力された言葉を基に,次に来る要素を予測しながら,即時に処理を行うと想定されている。このモデルに従うと,日本語話者は,「の」には名詞が後続するという方略(strategy)を用いており,その方略に従ってノ格主語をまず属格と分析し,ノ格主語に動詞が続く場合,再分析を必要とし,それが処理時間に反映されると予測できる。実験1では,ガ格主語文とノ格主語文を比較し,後者の処理には,前者より有意に反応時間がかかることを確認した。実験2では,実験1で観察された反応時間差の原因を探るために,ノ格主語文と「名詞句+の」が属格として使用されている文を比較し,前者の処理には,後者より有意に反応時間がかかることを確認した。両実験の結果から,予測は正しいものであると考えられる。