中国語史における「語順の変化」の類型論的検証

杉田 泰史

中国語の語順は類型論の観察において比較的特異で不整合なタイプに展する。本発表は Charles N. Li と Sandra A. Thompson の「中国語の語順は内発的な歴史的変化(SOV → SVO → SOV)を起こした」という仮説を検討する。
I. Li & Thompson の図式は幾つかの点において中国語史の事実と符合しない。(1) 唐代以前には存在しない筈の「把」に似た機能を特つ「恵/宙」という前置詞が殷代の甲骨文にみられる。(2) 上古中国語には代名詞から発達した目的格の後置詞「之」「是」があった。(3) 元朝期中国語には対格表記の後置詞があった。これらはいずれも SOV 構文を実現しながらも衰退している。
II. 前置詞「把」を用いた SOV 型構文は使用に制約が多いのに対して,西北の言語接触によるものと思われる後置的対格表記「哈]を持つ方言の SOV 型構文は極めて安定している。
III. 中国語は最近 VO 型の諸言語と接触し,その名詞句の修飾構造を OV 型に変化させつつある。これらの言語にとっての中国語化は,かつての中国語にとってのアルタイ化と本質的に同等のプロセスであると考えられる。
中国語が SOV 型への変化をとげる為には,「哈」のような後腹的格表記の獲得を経て,名詞句 S と O とが区別されなければならない。 中国語の語順は,言語接触による動揺と元の状態への復帰とを繰り返して,不空合な状態が続いてきたと考えられる。かつて Li & Thompson は Vennemann に反対して,「内部発生的な語順の変化」が VO → OV の方向で起こり得ることを主張したが,むしろこの言語は「内部的な要因による VO → OV という変化は起こらない」という普遍的傾向性を暗示する例としてあげるべきであるといえよう。