下り訳の原理

光原 百合

一般に下り訳と呼ばれる,翻訳を実践する上においては必須のテクニックがある。しかしこれがどういった場合に用いられるかについては,高橋泰邦署『日本語をみがく翻訳術』 (1982) などの優れた手引書もあるが,これまでおおむね各翻訳家の直感にまかされてきた。翻訳論の分野でもほとんど扱われていない。そこで本研究は,下り訳がなぜ,どのような場合に必要かについてできる限り客観的な基準を探り,翻訳の実践と理論の橋渡しとなることを目的としている。
下り訳とは,おおむね「原文の統語構造より情報提示の順を尊重した訳」ということができる。下り訳は,言語間の統語構造の相違のため,直訳すると訳文における情報の提示順序が原文の場合と異なってしまうとき用いられると考えてよさそうである。
しかし,原文における語順をすべて訳文に移そうとすれば,極めて不自然な文ができあがるだろう。たとえば,
We played tennis in the park.
ア. 私たちがテニスをしたのは,その公園だった。
イ. 私たちはその公園でテニスをした。
ア. は下り訳の例であり,イ. は中立的な訳といっていい。もし原文も無標の文であれば,ア. のような訳は不自然に思える。しかし,もし原文で,たとえば in the park が強く発話されるとか,その前にポーズがおかれるなどの特殊な情況があれば,下り訳は適切になる。
つまり,ここで in the park が文末にあることに強調の効果が生じうるように,原文の情報がその順で提示されていることで,著者がなんらかの効果を意図していると判断できる場合,その効果を保持するために下り訳が必要になるといえる。
もちろん,仮に下り訳をまったく採用しなかったとしても誤訳とはいえない。しかし情報の流れをまったく無視した訳になるため,ぎこちない翻訳になることは避けられないと思われる。従ってこのテクニックは,ストーリーの流れや文体的効果が重要になる文学作品の翻訳などには欠かせないものなのである。