本発表では,Fillmore (1982a, 1982c)の基礎をなしている考え方である frame semantics (Fillmore 1982b, 1984,1985, 1986) の概念を用いて,英語のジョークとそれによっておこる笑いの分析,及び文体から見たジョークの分析を試みた。より具体的には,多くの立場からの研究の中で,言語学的な研究としての Grice (1975) を枠組として用いたものや,特にジョークの分析としてすぐれている Raskin (1984, 1985, 1986) を批判し,問題点を提起した上で frame semantics がそれらの欠点をいかにのりこえることができるかを,数多くの用例をもって示した。つぎに笑いというのは「安心」であるという立場から,読者/聴者がジョークをその中の個々の語のもつ frame を集めて compute する。そしてそれが理解された時に緊張がとかれ「安心」が生まれると説明した。さらに,個々のジョークを比較することにより,(i) ジョークですよ,というように提示されることが笑いでいかに大きな意味を特っているか (cf. The first thing which strikes a stranger in New York is a big car.),(ii) ジョークはよく,最後の「パンチライン」で「おちる」と言われるが,実際にはそれまでにすでに読者/聴者は,ほとんどの場合ジョークの最初から「反現実的」「非現実的」テキストの中に取りこまれてしまっているのであってそれなしには「おち」がこないこと,(iii) 本当はそれどころか「おち」は,全く論理的には「おち」になっていないこと,そして (iv) ジョークのテキストの終わりというものが,実は「終わり」ということによって,笑いが引きおこされるのであって,それをさらに伸ばしたりすると,ジョークが "kill" されてしまうことの4点を,文体的な見方から指摘した。