アイヌ語とオーストロネシア語 (AN) との語彙関係
村山 七郎
金田一京助と共にアイヌ語研究の土台を築いた知里真志保はアイヌ語の「基本的語順」が他の言語のそれと「全然結びつかない」と考えた。この見方に対し私が疑問をもつに至ったのはアイヌ語 ape「火」と sat「乾く; 乾ける」が AN 系単語と見られるからである。ape 「火」はインドネシア語 api,タガログ語 apoy,台湾高砂族語の apoy,apuy「火」などと酷似し,しかも「私の火」はアイヌ口語で ku・ape,インドネシア語 api・ku,タガログ語 apoy・ko である。次に「乾く; 乾ける」はアイヌ語が sat,ジャワ語が asat であり,メラネシア語派のサァ語 ma|ata 「乾ける」,ポリネシア語派のサモア語 m|asa「浅い」,m|asat|o 「湖がひどくひく; 乾いている」と酷似する。 Dempwolffは「乾く; 乾ける; 浅い」のオーストロネシア祖形 (PAN) *at'at を再構したが,日本語の asa 「浅い; 浅くなる」はその *-t が,アイヌ語の sat は *a- の消えた形と見られる。オーストロネシア諸語とアイヌ語との間に見られる共通諸単語から,PAN とアイヌ語との間に次のような音対応が見出される。
PAN | アイヌ語 |
*ə | e | アイヌ語は「RGH法則」の R 言語に属する。 |
γ | r |
*h- | h- |
*l | r |
アイヌ語は AN 系言語の中で特にインドネシア語に近いわけでないが,両言語の間に次のような比較が可能である。
インドネシア語 | アイヌ語 |
tapih・ku私の腰布 (sarong) | ku・tepa (*tapih > tipa > tepa) 私の揮 |
puki・ku 私の vulva | ku・pok|i 私の vulva |
ku・hirup 私はすする (< *hiɣup) | ku・horop・se (*hiɣup > hirop > horop) 私はすする |
ku・m|inum 私は飲む | ku・num (*inum > num) 私は吸う |
ku・m|untah (< *u(n)tah) 私は吐く | ku・atu (< *utah) 私は吐く |
ku・taŋis (< *taŋit') 私は泣く | ku・cis (< *tis < *tŋit') 私は泣く |
アイヌ語
tepa「揮」,
atu 「叱く」のばあいにはメタテーゼ,
pok 「vulva」,
num「吸う」,
cis「泣く」のはあいには幹収縮が見られる。メタテーゼ,幹収縮(AN 系言語によく見られる)を考慮するとアイヌ語と AN 系言語との間にはかなり多くの共通語が見出される。