日本語には,「こわす」と「こわれる」,「曲げる」と「曲がる」のように,形態的・意義的に対応する他動詞と自動詞の対がありその数は少なくない。しかし一方,「読む」や「買う」のように対応する自動詞のない他動詞も多く,また「ある」や「そびえる」のように対応する他動詞のない自動詞も多い。では,動詞が自他対応をなすか否かは個々の動詞に個別の語彙的な問題,いわば idiosyncratic な問題なのだろうか。
実は必ずしもそうではなく,自他対応をなす動詞はその意味領域がかなり限定されており,そのことがいくつかの統語的な特徴にも反映しているのである。換言すれば,ある動詞が自他対応をなすか否かは,その動詞の意味的・統語的特徴と深く関わっているということである。このことは,日本語の自他対応の現象が語彙論的・形態論的な問題にとどまるものでないことを示すものといえる。
今回の発表では,他動詞について二つの観点―働きかけの影響が何に及ぶか,働きかけの結果に重点をおくか過程に重点をおくか―から考察することにより,次のことを明らかにした。すなわち,自動詞との対応のある他動詞は,動作主の働きかけの影響が対象に強く及ぶ事象を表す動詞であり,かつ,その結果として生じる対象の状態に重点をおく動詞だということである。そういった他動詞の表す事象においては言語使用者の関心が対象の状態に向かいやすいため,それを述べるものとして,対応する自動詞が存在するのだと考えられる。
自他対応をこのようにとらえることは,他動詞と自動詞が対応をなすかどうかについて共時的にも通時的にもゆれがみられることや,また,今回は触れられなかったが,他動詞と他動詞の対応といえるような対(「預ける―預かる」)や,他動詞と形容詞の対応といえるような対(「楽しむ―楽しい」)が存在する事実の説明にも通じるものと思われる。