否定呼応現象から探る日本語文構造の特質-理論研究と歴史研究から見えるもの-
司会:江口 正
本ワークショップは,(i)生成文法による言語の理論研究と(ii)日本語の歴史・記述研究の接点を探り,互いの成果から得られる新たな知見を利用して未解決の問題に迫り,互いの進歩を目指す。両研究ともに言語現象の観察記述に基づくが,方法論と導き出される一般化のあり方が異なる。(i)は,個人の内省的判断をデータに理論が不可能/可能と予測する現象を確認して論証を進め,詳細に共時的なシステムを明らかにする。一方(ii)は,文献資料をデータに言語現象を通時的に探り,方言も含めた変異の幅を見極めながら,現在の共時的システムに至った変化の道筋とその一般的性質を明らかにする。その違いを踏まえて,批判的且つ協調的に互いの研究を論じ,理論研究では得られない歴史研究の成果,歴史研究では得られない理論研究の成果を問う。(導入:江口正)
議論はいずれも,ある要素間の作用域関係が構造関係を反映するという前提の下,そこから構造関係を同定することを目指す。シカのような「係助詞」的呼応に理論研究における作用域という概念が理論的根拠を与える可能性,理論研究では共時態でのみ捉えられた構造関係が,通時的な動態としてどのように捉えられるか等を論じる。
現代日本語シカのふるまいと統語的条件
理論研究の一例として片岡(2006)から,否定と呼応するシカの分析とその意義を論じる。生成文法研究では,「否定要素によるc-統御」が否定呼応表現の必要条件とされ,それは否定呼応表現が否定の作用域にあることを意味する。しかし,否定呼応表現によって否定要素との構造関係は異なり,否定要素に必ずc-統御される「ろくな~」等に対し,シカ句は,否定要素を必ずc-統御し,つまり否定の作用域にあるのではなく,それ自身の作用域に否定を要求することを示す。その根拠は,シカ句がc-統御する要素は否定の作用域外に出られず,シカ句をc-統御する要素は否定の作用域に入れないという事実で,シカ句は必ず否定をc-統御し且つ否定述部と姉妹関係にあり否定のc-統御領域を決定する。そしてシカ句と否定述部が叙述文(Predication: Subject-Predicate)(Kuroda (1976)等)を構成すると提案する。ただし,シカが何故否定を要求するかという問いは未解決である。
「~シカ~ナイ」構文の歴史-「係助詞」性に注目して-
歴史研究の一例として宮地(2007)の分析を論じ,助詞シカが否定との「係助詞」的呼応を獲得する過程,その構文的特徴や意味機能から,助詞体系や日本語の構文特質を探る。シカのような助詞による否定呼応は古代中央語には観察されず近世以降成立した。一方現代諸方言ではシカに当たる助詞がホカ・ヨリ・キリ・コソ・バー(<バカリ)など各地で観察される。このうち現代京阪方言でシカに相当するホカを中心に,シカに類する否定呼応表現の歴史的成立過程を記述する。これらシカ類が端的には他の助詞(格助詞・副助詞)に必ず後接するという古代語の係助詞と同じふるまいを見せることを根拠に,シカ類の否定呼応の成立を「係助詞化」と捉える。このシカの呼応成立過程の分析が,シカ句が否定を要求することに一つの根拠を提示すること,また,片岡分析が,宮地の主張するシカの係助詞性及びシカ類の係り結び現象の理論的再解釈の理論的根拠となりうることを論じる。否定述語をc-統御する位置がシカ等係助詞の統語的位置であり,シカの否定呼応は述語をc-統御する関係において係り結びと同じと捉え,それらを踏まえてシカ句と否定述部が叙述文を成すことの是非を論じる。これは係り結び全体の理論的再解釈にも展開する論点となる。
歴史的観点からみた否定の作用域
両発表から出てきた問題点を踏まえて,否定と否定に関わる表現の構造関係を通時的観点から論じる。まず,衣畑(2005)から,ダニと否定の作用域関係が歴史的には変化したことを見る。このことは,否定呼応表現と否定辞の構造関係が,必ずしも片岡分析が想定するような固定的な関係ではないことを示唆するので,シカに類する否定呼応表現にも否定との作用域関係(ひいては構造関係)の変化が起きていないかを検討する。否定の作用域を歴史的に考察する場合,純粋に統語的な道具立てを用いることは資料の制約上困難であるので,その代案として,文全体の解釈を予測する意味論的道具立てを用いて作用域の変化の検証を行う。しかし,その道具立ては,現代共通語のシカを捉える上でも有効である。本発表では,片岡が提示するシカのc-統御領域とは,意味論において代替集合(Alternative set)を作る領域であると捉え直す。その上で,係り結びの「係り」と「結び」の関係も,同様の集合を作る領域を標示する機能を持つという点で,両者に共通した性質があることを論じる。