日本語の受動文は「主語が被害(あるいは迷惑)を被る」という解釈を受けるものが多く,その意味的特徴の一つに〈被害性〉が挙げられてきた.しかしながら,被害受動文が必ずしも一貫した視点で捉えられているわけではない.例えば,Washio (1995) は独自の観点から受動文を二つのタイプに分類し,それぞれのタイプが示す被害性を別扱いしている.本研究は,Washio の分析を批判的に検討し,受動文のタイプに応じて被害性を二分することには経験的に問題があることを示す.被害性は受動文の意味から自然に誘因される語用論的推論として特徴づけるべきものである.そのように見立てることによって,受動文のタイプの違いに関係なく,すべての事例に適用される統一的な説明が可能になることを明らかにする.