代名詞などの照応表現は,その照応のしかたに関して,照応表現とその先行詞の順序関係から,先行詞が照応表現より前にある場合(前方照応)と,先行詞が照応表現より後に来る場合(後方照応)に分けることができる.一般に,後方照応は,前方照応よりも,統語論的にも,意味論・語用論的にも分布が限られていると言われるが,その制限については十分明らかにされていない.久野(1978)『談話の文法』は,ゼロ代名詞(久野は「省略」とみなす)が使用可能なのは「聞き手が先行文脈から推定できると話し手が仮定したときのみ」であるとし,原則的に,文レベルでの(見かけ上の)後方照応の例は,談話レベルから見れば前方照応であり(先行文脈や発話の楊に先行詞が存在する),談話レベルでの後方照応は存在しないと主張している.本発表では,フィクション系の小説の冒頭に,談話レベルでの後方照応とみなせる例がしばしば現れることを指摘し,このような例を含めた日本語のゼロ代名詞のふるまいを,ヒトの情報処理をファイル管理システムとみなすモデルの中で説明することを試みる.ゼロ代名詞は,短期記憶(ワーキング・メモリ)内に作成されたアクティヴなフォルダ(共通した「主題」について述べたファイル・カードの臨時の入れ物)の「名前」を指し,短期記憶内では「名前」が未指定のフォルダの作成が可能であるとする.このような仮定の下では,後方照応のゼロ代名詞は,短期記憶内の未指定のフォルダ名を指し,後方の「先行詞」は未指定のフォルダに「名前」を付ける働きをしていると考えることができる.また,フィクション系の小説の冒頭に後方照応のゼロ代名詞が生じるのは,新しい情報の導入方法として,後景情報から前景情報ヘズーム・アップするという(文体論的)手法が好まれるためであると考えられる.