ムニャ語(中国の漢字表記では「木雅語」)は,中国四川省西南部のミニヤコンガ山の麓の地域に居住するチベット族によって話されている使用人口約1万人の言語である.ミニヤコンガ山の西南部に住む者の間では,ムニャ語とともにチベット語カム方言が話され,また東部に住む者の間では漢語の西南官話が使われていて,この東西方言間の差異は比較的大きく,相互に語は通じないという.これまでのムニャ語に関する体系的な記述研究は,東部方言について中国の研究者による調査報告と語彙集がそれぞれ二種類発表されているのみであり,いずれもムニャ語を羌(チアン)語系に属する一言語として位置付けているが,その帰属の妥当性や他の羌語系諸語との関係などは,今後の大きな研究課題である.
本研究では,康定県沙徳地区のムニャ語方言の音韻の諸特徴について,現地調査により収集した基礎語彙と基本文例を分析し,先行研究との比較で明らかになった主な異同を整理した.音韻面では,母音体系がかなり簡素化しており,先行研究の記述する二重母音がほとんどなく,すべて介音のない単母音となっていることが大きな特色である.また,ムニャ語の基本的特徴とされてきた緊喉母音の出現頻度はかなり低く,出現する語彙も先行研究とは一致しないものが少なくなかった.緊喉母音の一部は弛緩母音に合流し,その弁別の機能は音節初頭子音の発音部位の違いに移行しつつある.文化的事物の語彙にはチベット語カム方言と漢語西南官話からの借用語も多く,それらには二重母音や鼻母音の出現頻度がやや高いことが注目された.また固有語だとして提供を受けた語彙のなかにも,チベット語起源のものが散見し,新しい借用語とは異なる音声特徴を有している.
このほか,調査結果の報告に加え,中国西南少数民族の言語調査の経験から媒介言語や録音などの技術的な問題についてもいくつかの提言を行ない,同地域の調査を志す研究者の参考に供した.