シベリア北東端に分布するチュクチ語(チュクチ・カムチャッカ語族)は,語形成に接辞法(接尾辞,接頭辞,接周辞),合成法,重複法,母音・子音変換,補充法などの多様な方法を利用している.なかでも合成法,とりわけ名詞語幹と動詞を単一の動詞形式へと合体させる名詞抱合は,現在でも広く生産的におこなわれる重要な方法である.本発表では,筆者が現地調査でえた資料にもとづき,チュクチ語西部方言の名詞抱合について,これと混同されやすい名詞語幹と動詞からなる語彙的な合成動詞,名詞語幹と動詞的接尾辞からなる出名動詞との違い,抱合された動詞の語としての画定,抱合的表現と対応する自立名詞による分析的表現との機能的差異といった基本的性格をふまえつつ,どのような名詞が抱合されるのかを,分析的表現に見られる格標示を手がかりに分類,整理したい.
チュクチ語において抱合される名詞には,単一名詞以外に,修飾―被修飾構造の合成名詞,所有名詞句,所有名詞句よりも緩やかな関係を表わす関係名詞句,動詞に対し別々の統語関係をもつ2つの名詞などがある.これらは統語的には動詞に対し,(1) 他動詞目的語,(2) 自動詞主語,あるいは,(3) 手段・道具に随伴者,位置,方向を表わす付加詞として働く名詞語幹である.このうち,他動詞目的語の抱合が最も広くおこなわれるが,抱合にともない名詞項の減少による自動詞化と主語の能格から絶対格への昇格という統語的変化が起こる、また一般に,抱合されにくいといわれる有生名詞もチュクチ語では抱合されうる.
以上のように,チュクチ語では現在でも多様な名詞抱合が観察される.北東アジアから北アメリカ北西部にかけて名詞抱合を有する言語の多くで,その使用が限られ生産性を失いつつあるなか,チュクチ語が名詞抱合にかんする類型論,語形成理論等の研究に果たしうる役割は少なくないといえよう.