「を」格ゼロマーク化の社会言語学的解釈

松田 謙次郎(広島大)

本発表では,東京方言の格助詞「を」が,自然談話中で頻繁にゼロ(以下「ゼロ形」)として実現される現象(以下「ゼロマーク化」)を取り上げ,理論的に考えられる可能性を実際のデータと照らし合わせて検討し,各々の問題点を指摘した.この変異をめぐっては,変化/安定した変異という区別,変化の方向,そしてその社会言語学的性質により,(1) ゼロ形は,何らの進行中の変化にも関与していない,方向を持だない変動である,(2) ゼロ形は増加の傾向にありその変化は「下からの変化」である,(3) ゼロ形は日本語の歴史的変化の流れを継承しつつ減少の途上にあり,明示的な格表示に向かって緩慢なスピードで「上からの変化」を続けている,の3つの可能性に絞られる.データに見られる特徴は,(i) ゼロ形の分布に年齢差に有意差はない,(ii) くだけた発話スタイルにおいてより多くのゼロ形使われる,(iii) 山の手の話者は下町の話者よりもスタイル差が大きい,(iv) 女性の方が男性よりもよりゼロ形をよく使う,とまとめられる.井上 1992 の主張する解釈 (3) は,所見 (ii) によって裏付けられるが,所見 (iv) の説明に難があり,また言語内的要因との絡みで,明示的な「を」が主文よりも埋め込み文のなかでより多く使われている事実が説明できない.Givón (1981),Hock (1986) で論ぜられている通り,一般に埋め込み文は進行中の変化に対して保守的な傾向を示すからである.一方,解釈 (1) と (2) には,日本語格助詞「を」の史的背景との関わりが明らかでなくなるという点から難があるが,解釈 (2) は,下からの変化では女性が往々にして innovator であること (Labov's Principle II (Labov 1990)) を考慮すると,性差のパターンに説明がつくことを指摘した.