「…(し)てほしくない」と「…(し)ないでほしい」について

森 貞(福井工業高等専門学校)

従来の研究(例えば,本田 (1981),マグロイン (1990))では,「…(し)てほしくない」[(N (in) M 型]は,「…(し)ないでほしい」[(N (in) S 型]の否定辞繰り上げ版 (NEG-Raised version) であるとされているが,本発表では,こうした見方を否定し,以下の方略を用いて,次のような主張を行う.

(1) 日本語には,「否定辞繰り上げ (NEG-Raising)」 現象は存在しない.

(2) 日本語には,「否定辞返送 (NEG-Returning)」 なる否定辞移動現象が存在する.

  1. (N (in) S) 型文には,(N (in) M) 型文には認められない,〈要請〉という発語内の力を認めることができる.これは,(N (in) M) 型文が (N (in) S) 型文に時間先行して生成されていなければならないことを意味する.何故ならば,「…(し)てほしくない」という気持ちがあるからこそ,「…(し)ないでほしい」と要請・要求できるのであって,その逆は成り立たないからである.ところが,日本語の「否定辞繰り上げ」は,その不成立条件を前提として,その存在が主張されている.この理論的不整合を解消するためには,(1) のように想定するのが妥当である.
  2. 元来,(N (in) S) 型文は,否定的主張の意識が生じている場合に生成される《否定的主張》の表現であり,(N (in) M) 型文は,否認の意識が生じている場合に生成される《否認》の表現である.しかし,実際には,否認の意識だけしか生じ得ない文脈においても,(N (in) S) 型文の使用が観察される.この言語事実は,(2) を想定することで説明可能となる.この場合,(N (in) S) 型文は,(N (in) M) 型文の「ない」が,「てほしい」による修正がなければ、本来置かれていたであろう位置に戻されて生じたものであり,従って,否認的応答が予期される談話状況下で使用される (N (in) S) 型文は,(N (in) M) 型文の否定辞返送版 (NEG-Returned version) ということになるのである.

付記: 本発表は,平成8年度文部省科学研究費補前金(奨励研究A)(課題番号08710340)に関わる研究成果の一部を報告したものである.