従来試みられてきた表層照応・深層照応の区別には問題点がある.まず,syntactic control / pragmatic control という2分法 (Hankamer & Sag 1976) では,表層照応でも非言語的なコンテクストにもとづいた解釈を受ける場合があることを例外という扱いでしか説明できない.次に,先行詞を復元する困難さの程度から2つの照応を区別する Murphy (1985) では,照応形を含む文がもつ復元の統語的な手がかりをひとつの要因とするために,表層照応である動詞句削除の例 "I don't see why you even try to." は,深層照応である空補文照応の例 "I don't see why you even try." よりも照応形を含む文内に手がかりが多いために,深層照応に分類されるという誤った予測をしてしまう.
本発表では,表層照応・深層照応における先行詞の復元に関して,会話の含意とそれを導く推論の過程がどのように異なるかを,Levinson (1987) の会話の含意の枠組を用いることにより説明する.I-implicature とは,話し手の発話の情報内容を拡張した結果生じる含意であり,照応全般に深く関わっていると考えられる.表層照応・深層照応の両方の場合において,I-implicature により特定的な解釈がえられるが,その過程が両者では異なる.表層照応の照応形には,コントラスト・セットがないために Q-implicature が導き出されず,I-implicature により情報内容の解釈の拡張が行われることで先行詞の復元が行われる.これに対し,深層照応では,照応形が特定的な表現とコントラスト・セットをなすために,Q-implicature が生じ,それを抑えるように I-implicature が生じることで,先行詞の復元が行われる.