日本語の「第三者の受け身」やインドネシア語の 'ke-an 受動文' が,利害(多くの場合は被害)の意味を含意するのは,概ね,次のような共通の意味構造と認知過程が関わっているためである.
「ある独立した事象 (A) 」が起こることにより「その事象の生起とは別個に存在している第三者 (B) 」が影響を受け,その結果として (B) に何らかの状態(心理的な状態を含む)が残される.(A) から (B) への影響は非意図的なものであるため,(B) に残された状態を (B) が認識するには,その状態が (B) にとって「過分(自己の心内の基準値や限界を超える)」と体感されることが必要となる.
そして,この「過分」という認識が「被害の含意」と密接に繋がっていく.「被害」に比べると「利益」の場合はいくら多大であっても「過分」とは認識されにくいからである.こうして,「過分」という体感と「被害の認識」とは「スケール型」属性認識を介して密接に結びつくことになる.
このような受動表現は,日本語やインドネシア語のように「ナル型」の受動構造を base に特つ言語だけに見られる表現であると考えられる.